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移住労働者としての原初的な生活形態−舳倉島の海女からの考察―

「移住労働者としての原初的な生活形態−舳倉島の海女からの考察」

Haji Oh

 舳倉島は、輪島から北に約50kmに浮かぶ周囲5kmの孤島、島の中央にある竜神池を中心に2度の火山噴火によってできた火成岩からなる島である。海女で有名なこの島を訪れた民俗学者の瀬川清子は著書『海女』のなかで、「島は一里ばかりの牧場のような平らな草原で、前浜に一列にながく家が並んでいた」と記している。昭和8年(1933)のことである。80年以上経った現在も、そのおもかげをとどめた原風景が広がっている。

 

 舳倉島の海女のルーツについては、福岡県宗像の鐘ガ崎にあると言われている。16世紀に、鐘ガ崎から漁にでた海人の一団が、あるとき時化にあって能登半島に漂着し、それを機に、沿岸で漁を始めたのがきっかけである。当初は、漁が終わると鐘ガ崎に帰るというかたちで季節労働の場として訪れていたが、当時、藩主の前田利家の保護のもと、舳倉島での漁が許可され、それを機に輪島に定住するようになったという。舳倉島を漁業の場とする海人たちは、5月ごろの漁の季節から秋の終わりにかけて家族をつれて舳倉島にわたり漁をする、これを島渡りという。海女は潜水し、海藻やアワビ、サザエなどを採る。もぐるときに命綱としてふんどしに麻縄をつける。この縄を引き上げる重要な役を担うのが夫や兄弟である。島渡りが終わると、10月ごろに輪島にもどり、今度は灘周りとよばれる行商/物々交換にでる。灘周りでは、能登半島を船でまわり、漁の期間にとった海藻や、イワシ(糠鰮)、アワビ、サザエなどを農村に出向き、米や大豆と交換するのである。漁、島渡り、灘周りにつかうのは船屋/コテントとよばれる仕事道具兼住居でもある8m〜9mの小さな帆掛け船である。11月末から、12月初めに輪島にもどったあとは、1月から3月は、ノリ、ワカメ採りをする。そして、4月、10月は島渡り先でつかう薪を集める。また、季節労働者として、11月から3月までの間、金沢の紡績工場など、出稼ぎに行くものもいた。

 このように、舳倉の海女たちは、季節労働者として、福岡鐘が崎から石川輪島を漁場にしていたのが、そのうち移住し輪島を拠点にした生活を送った。しかし、一年を通じての生活形態は、季節労働者として、常に移動を伴う生活であった。

 

 民俗学者の宮本常一は著書「海に生きる人びと」の中で、「人が移動するのは、自分たちが住んでいる世界が不安定の場合におこる。そこに食べるものが十分あって、周囲から外敵におかされるようなことがなければ人はそこに長く定住し繁殖していく。だから人はそうした場所をもとめて移動し移住する。」と述べている。

 

 瀬川清子著『海女』によると、ある三重県伊勢志摩出身の海女は、竹島や北海道の利尻島まで漁にでかけたそうだ。その海女は、当時26,7歳の頃、日清戦争の前だと回想している。女性20名、男性3名でトッペという鰹船、男性が艫櫓(ともやぐら)を漕ぎ、女性が、脇櫓を漕いで、志摩の国崎から竹島まで行った。竹島に朝鮮人が住んでいて、その暮らしの様子や、野菜と海産物を物々交換した話など、竹島には9ヶ月間滞在し、10末に志摩にもどったとある。韓国の済州島や福岡の鐘が崎から対馬や竹島、また日本から済州島への行き来もあった。このように朝鮮半島と日本列島の間を海を介して漁場をもとめて互いに移動していたのである。日本と朝鮮半島とを往来した海人についての歴史をふりかえってみると、13世紀にさかのぼる。福岡県宗像市鐘ガ崎の海人たちが、対馬経由で朝鮮半島へと渡ったと記録にある。

 鐘ガ崎は日本海沿岸の海女の発祥の地として知られる場所であり、韓国済州島との交流により伝わったという起源説もある。この鐘ガ崎の海女たちも季節労働、あるいは移住労働者として、漁や生活の場を移動して過ごしたそうだ。この移動、出稼ぎの形態をアマアルキという。アマアルキにでかけた際には、潜水や漁の技術も伝えられたそうで、旧宗像市民像資料館について調査をおこなった平松秋子氏によると、その技術の伝播の結果が、発祥の地と言われる所以であると指摘している。鐘ガ崎の海女の移動先としてしられる中に、対馬や、先に記した石川県能登半島の輪島があげられる。海人たちは、春から秋の季節に漁業の場を求めて移動し、冬場は鐘ガ崎に戻ったが、中には、移動した先に定住するものもいた。鐘ガ崎の海人たちが、輪島まで移動したのも、対馬を経由し、さらに漁場を求めて移動した結果である。

 

 海女の生活に関心をもちはじめたのは、済州島出身の祖母が、日本に移住する前に海女をしていたと聞いてからである。当時、済州島と大阪をつなぐ「君が代丸」という定期船があった。母の姉である叔母は、済州島から日本へ向かう船の上で、兄におぶられて過ごしたが、自分の体が船の縁の外にでた状態であったため、すごく怖い思いをしたそうだ。この船にのって、多くの済州島出身者が大阪へと出稼ぎにきていた。季節労働で行き来をするものや、中には日本に定住するものもいた。

 

 済州島の沿岸部に住む人々は、漁業を生業とした人が多く、女性たちは潜水業によって、生計を立てていた。このような海女たちは、1895年頃から、漁業の場を求めて、積極的に移動していた。その先は、日本にかぎらず、韓国本土、中国やロシア沿海州まで漁業の場をもとめて移動している。日本国内の移動の範囲は、関西にかぎらず、太平洋沿岸を中心に北は青森、南は鹿児島へとひろがっている。その背景には、日本の植民地化によって、自由に往来できたことがあげられる。しかし、日本の植民地から独立した後は、往来が制限され行き来が難しくなった。このような状況でも、第二次世界大戦後、朝鮮半島は、朝鮮戦争の影響もありは社会的に不安定な状況が続き、日本での暮らしをもとめて、密航も含め、親類をたより済州島から日本に移住する人が多くいた。

 漁を目的として日本に行く済州島海女たちの季節労働者としての生活の形態は、例えば、大阪を拠点にして漁の期間になると対馬に行き、おわると大阪へ戻ったものや、親戚の招待ビザや観光ビザを使って来日し、漁がおわると済州島へともどるものもいた。また、大阪を拠点にしていても、年末年始には済州島へもどることもあり、海女たちはこの3つの地点を行き来し、生活をしていたのである。

 

 このように見てみると、舳倉島の海女の暮らしや、志摩の海女のおばあさんの話ともかさなるように思う。海女たちは、漁業の場を求めて、積極的に移動して生計を立てていたのである。済州島海女たちにとって、戦前中後におこった社会の不安定さは、宮本常一が指摘するように、「自分たちの住む世界の不安定さ」と考えられるだろう。そして、この「不安定さ」の中で、よりよい生活を求めて、果敢に生活の拠点を移動する海女たちの姿は、近年、グローバル化において増加するアジアの女性たちの単独移住の原初的な姿をみるようである。

 

 

参考文献:

瀬川清子『海女』、未来社、1970

宮本常一『海に生きる人びと』、河出書房新社、2015

李善愛「コリアン・ディアスポラとしての済州島海女」、立命館言語文化研究17巻1号、2005

沖谷忠幸「舳倉島の海女の灘廻り」、社会経済史学4巻12号、1934、pp.1391-1405

平松秋子「旧宗像市民族資料館について」、むなかた電子博物館紀要第3号、2011

伊田久美子「生計を担う女の移住労働−済州海女博物館を見学して」https://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/sectiion3/2009/11/post-83.html#n1

 

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