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舳倉島

 

 

 

舳倉島は、輪島から北に約50kmに浮かぶ周囲5kmの孤島である。島の中央にある竜神池を中心に2度の火山噴火によってできた火成岩からなる。『海女』の著者、瀬川清子が初めてこの場所を訪れた昭和8年、「島は一里ばかりの牧場のような平らな草原で、前浜に一列にながく家が並んでいた」と記している。80年以上経った現在も、この島の印象はこの時と大きな変化はないのではないかと思う原風景が広がっている

 

舳倉島へは、輪島の鳳至町から出航し、1日一往復する定期船で行くことができる。朝の9:00に港を出発し、1時間半で島につく。帰りは15:00に舳倉島をでる。島へ行く前日からあいにくの雨で、予定通り船が出航するか心配であった。海が荒れていれば、休航になる。乗船場には「本日出航」の札がかかってあり安心する。舳倉島は野鳥が多くやってくるとのことで、野鳥を観察、撮影するために来たであろう人が数人乗船している。

2畳ほどの甲板にでると、カメラを携えた人がすでにおり、「舳倉島へはよくいくのですか?」と聞くと、「年に1回、春か秋には来る」とのことだった。春と秋は渡り鳥の中継地点となるそうだ。

 

港を出て、1時間くらいした頃か、左手にいくつかポコポコとした島が見える。七つ島ですか、と乗員に聞くと、七つ島と言っても、それぞれに名前があるとのことだった。後日調べてみると、御厨(みくりあ)島、赤(あか)島、大(おお)島、竜(たつ)島、烏帽子(えぼし)島、荒三子(あらみこ)島、狩又(かりまた)島というそうだ。小さな船が大きく波にゆれる。揺れによって気分が悪くなるのを紛らわそうと少し目をつぶっている間にウトウトとしてしまい、目を覚ましたときには、明るく簡素な広がりを感じる港が目前に見え、舳倉島に到着した。

 

 

 

 

   

 

島は2時間くらいで歩いて回れるとのことで、西側まわりで歩るくことにした。まずはじめに、奥津比神社にお参りしたかったからである。

島には、7つの神社と竜神池、観音堂、弁天社が島の海岸沿いにぐるりと点在している。中でも奥津比神社は、島全体の総氏神であったといわれ、舳倉島の海女・海士のルーツともいわれる福岡県宗像市鐘ガ崎の宗像大社の信仰をうけ、田心姫命を祭っている。島の人は、島わたりして、島に落ち着くと、氏神の奥津比神社にお参りしてから、漁の準備をしたそうだ。

 

奥津比神社にむかう途中に、海人の夫婦と野鳥を見にきたおじさんらしき人が話しをしている。女性は海女さんのようで黒いウェットスーツを着て海岸ぎわで、海藻を洗っているのか、作業をしている。さっきの船で着たんかと聞かれて、はいそうですと答えると、今日、船が出航したことを確認し、明日の方が荒れらしいとのことで、島の宿がいっぱいで輪島に泊まっているというと、海女さんが、「一人くらい泊めてあげられるけど、次の日に船がでなかったら困るからね。」と声をかけてもらう。

奥津比神社をお参りして、島の西側にでると、港側とは違って外海に面した岩礁の荒い海岸である。奥津比神社の裏側は海藻がとれるらしく、前日に船着場で聞いた話しによると、この時期はこのあたりに海女さんがいて、海藻をとっているとのことだったので、少し降りて歩いてみることにした。親娘かなとおもう二人組の女性が黒いウエットスーツを着て作業をしている。

 

 

 

 

 

 

ごろごろとした石でうめつくされた海岸から小道にもどって地図をひらいてみると、それぞれの神社を参拝すれば、島を一周できることに気がつき、つぎのお宮をめざして歩きはじめた。

島をぐるりと一周できる小道からすこしはずれ、雑草に囲まれた海岸沿いに点在した神社は、どれも暴風をしのぐための石垣で囲まれ、そばに石積みがある。石積みは信仰とのかかわりと、難船した時、せめての目標にと、岬に積み上げられたそう。シラスカ遺跡、八坂神社をとおり、金比羅神社の鳥居のすぐそばに腰掛けて、輪島の朝市で買ってきたおにぎりを昼食にたべる。その後、灯台にあがり、無他神社の竜神池、観音堂をまわって、北東に位置する恵比寿神社へ。そのころには、よく歩いて、撮影したせいか、疲れがどっとでてきた。結局、伊勢神社にはたどりつけずに、港に臨む弁天社を見つつ、船着場にもどった。時間は14:00頃。3時間ほどをかけて島を1周した。

 

   

   

 

   

 

 

島中のあちらこちらで目につくのは、さまざまな太さのロープをつかった作業結びである。船や漁で使う結びの延長が、家屋のさまざまな箇所で応用、転用されていることがわかる。印象的だったのは、屋根の瓦やトタンの上に、うねらせて載せられた太いロープで、これは屋根が飛ばないように置かれたものだと一見してわかる。また、物干しや陸揚げした船を固定しているロープもそのようである。日常の労働の動作が、生活空間へとあらわれている。「東アジア漂海民と家船住居」という論文で「漂海民の陸上がり」と題した章で、海士町の人が行商船としてつかっていたコテント船の構造と、舳倉島の家屋の間取りの共通性をあげ、船の空間概念が、しばしば住居に投影すると指摘している。島に点在する生活の痕跡は、そこに住む海女・海士の身ぶりそのものである。

 

参考文献:瀬川清子著「海女」、浅川茂男著「東アジア漂海民と家船居住」、海士町自治会「舳倉島」パンフレット

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